寒川神社は、古くから関八州鎮護の神としてこの地方の名祠とあがめられています。具体的な創祀年代はわかっていませんが、総国風土記によると約千六百年前、雄略天皇の御代に幣帛を奉納せられたとあります。関八州とは、江戸時代における関東八カ国のこと。当時既に関東全域において、著名な神社として知られていたと考えられます。
寒川神社の正確な創祀年代は、現存する資料には記載されていません。ただし、雄略天皇(四五六~四七九)の御代に奉幣、また神亀四年(七二七)社殿建立と伝える記録があり、少なくとも約千六百年の歴史を有することになります。
公の記録として残る最初のものは、仁明天皇承和十三年(八四六)神階従五位下を授けられたと『續日本後紀』に確認することができます。以来神階の授与が度々なされており、齋衡元年(八五四)従四位下、元慶八年(八八四)正四位下、延喜十六年(九一六)正四位上と進階されました。 また『延喜式』神名帳(九二七年編纂)によれば、相模國十三社のうち、唯一の名神大社とされています。
寒川神社の八方除は古くから全国に知られており、過去には源頼朝、北條義時、武田信玄等の武将、徳川家代々の篤い信仰を受けてきました。
伝承によると、武田信玄は永禄十二年(一五六九)十月の小田原城攻めの際、寒川神社へ立ち寄り、兜を奉納し、信玄芝原で兵を休めた、という逸話が残っています。その際に奉納された兜は寒川神社に現存しており、神奈川県の重要美術品として指定されています。
全国唯一の八方除の守護神として、すべての悪事災難をとり除き、福徳開運を招き、生活に限りない恩恵をもたらすといわれています。